5月下旬。長らく自宅での情報収集のみを余儀なくされていたカメイドタートルズ編集部に、朗報が舞い降りた。

「緊急事態宣言を解除します」

そんなニュースを目にしたスタッフは、「またあの地(=亀戸)で取材ができる…!」と、ひっそり嬉しさを噛みしめていた。

ニュースを見て喜ぶタートルズ編集部の図

しかし、2ヶ月近くに及ぶ自粛期間で、取材はおろか不要不急の亀戸散歩すらできないというのは、亀戸ラバーズである我々にとっては一種の拷問。

「今ごろ亀戸天神の池にいる亀は何をしているだろうか」

亀戸への想いはつのるばかり!

ガタッ。(椅子から立ち上がる音)

その妄想は、緊急事態宣言解除を待たずして、編集部のある一人のライターをパソコンへと向かわせた。そうして出来上がったのが今回の企画、その名も…、

亀戸を舞台にしたある男女の物語。甘酸っぱいストーリーに青春を思い出すもよし、現地で聖地巡礼するもよし。亀戸愛にとりつかれるがまま書き上げた、渾身の小説をどうぞ。

【亀戸×恋愛小説】うそひめ。第一話

同棲していた彼氏に追い出され、雑誌の占いで吉と出ていた“北東”に引っ越してきた。亀戸には馴染みがなかったが、家賃も手頃だったので決めた。彼とはもう三年も付き合っていたし、結婚は秒読みだった。一度や二度、ほかの女の影はあったけれど、彼が戻ってくる場所は必ず私だったし、優秀な恋人としての役割は果たしていたはずだ。正月に彼の実家に行くことを拒まれ、問い詰めると別れを切り出された。

亀戸に引っ越した翌日、寝袋とスーツケースだけが転がった余白だらけの部屋に耐えられず朝の散歩に出た。引越しの挨拶にでも、と亀戸天神をお参りするつもりだった。1月の半ば、平日のまだ八時半くらいだというのに境内にはそれなりの人がいて、鳥居近くには「鷽替(うそかえ)神事」と書かれた看板が立っていた。今日は特別な行事がおこなわれているらしく、拝殿からは長い列ができている。境内の池の亀と錦鯉との会話を楽しんだ後、私は列の最後尾に並んだ。行事に興味はなかったけれど、それがこの土地での礼儀のように感じた。

鷽替神事は江戸時代から続いているらしい。鷽にはその年に起きた凶事を“嘘”にして、幸運を招くという言い伝えがある。毎年この時期に木彫りの鷽を前年度の鷽と交換することを、“鷽替え“と呼ぶそうだ。

ようやく私の順番が回ってきたころ、右肩の後ろに強い圧力を感じた。私の体はひるがえり、振り向くとスーツ姿のビジネスマンが額にうっすらと汗を浮かべていた。私より十五センチは背丈のある男はチャコールグレーのコートを羽織り、ブルーのチェックのマフラーを巻いている。色白で、大きな瞳に釣り合わない下がった眉尻が印象的だった。

「すみません! 十号をひとつ」

男は興奮した様子で、テーブルの上の一番大きな木彫りを指差した。私の視線に気づいたのか、男がこちらを向くと会釈なのか頭を下げたのか分からないような仕草をし、鷽を受け取り足早にその場を去った。私は少し傷ついていた。それはぐいっと押しやられた圧力に心を潰されてしまったからなのか、自分は「すみません」の一言もかけてもらえないようなちっぽけな存在と気付いてしまったからなのか分からない。

私は心細くなって、売られていた中でもっとも小さいサイズの木彫りを買った。財布の中に入れておけるほどの小さな鷽だ。さしずめ、自分にはそのサイズが見合っていた。

天神を出て大通りに出ると、私を押しのけた男が十メートルほど先を歩いていた。男はある店に入ったかと思うと、すぐに飛び出し、腕時計に目をやりながら駅の方に駆けていった。男が去った後、店の中を覗くと母親より少し年上くらいの女性が背伸びをし、木彫りの鷽を棚に飾っているところだった。店はだいぶ年季が入っていて、壁は茶色く焼け、電球は見るからにベタついている。振り返った女性と目が合うと「こんにちは」と声をかけられた。

「昔なつかしい味わいですから、よかったら。生醤油(きじょうゆ)煎餅」

女性は砕いた煎餅の入ったプラスチック容器を私に差し出した。ショーウィンドウにはいろいろな味の煎餅が並んでいるが、生醤油煎餅を薦めるくらいだからここの名物なのだろう。

煎餅を口に入れると、しっかりした味に少しだけ寒さが和らいだ。寒い地域に住む人が濃い味を好むのと似ているのかもしれない。生醤油が私の舌を覆い、強張っていた頬に程よい刺激を与えた。私は生醤油の味を知らなかったけれど、きっと、こうしてほっと安心するような心地のことを“なつかしい”というのだろう。

鷽替神事について尋ねると、女性は私の顔を覗き込み、「はじめて?」と聞いた。私が引っ越してきたばかりだと知ると、女性はうれしそうに笑い、

「また来てね、うちはお煎餅も焼けるから」

と入り口のフィルム写真に目をやった。小さな男の子が女性の膝に乗り、焼き網の上の煎餅を裏返そうとする姿を、ハチマキをした男性が柔らかな表情で見つめている。

「息子なのよ、さっきも鷽を買いに行ってね」

私を押しのけた男は煎餅屋の息子だった。隣に写っている男性は父親かもしれない。

「もしかして、すれ違ったかしら」

私がうなずくと、女性はこれおまけ、と言って、小包装の海苔煎餅を一枚付けてくれた。

家に着くと、煎餅を頬張りながらスマホで鷽について調べた。昔は「うそひめ」とも呼ばれていたらしい。鳴き声はか細く、口笛のようだという。なんなら私の災難もいっそ口笛で吹き飛ばしてくれればいいのに。いや、こんなしがない木彫りにできるわけない。でももし言い伝えが本当なら? そんなことを思っていると少し笑えてきて、いつのまにか煎餅の袋は空になっていた。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

《次回予告》

再会する男女。しかし、悪意のない悪意が「私」を襲う…!果たして二人の運命は?

Edit by カメイドタートルズ編集部